北海道・栄養学校の母『鶴岡トシ物語』のご紹介

この度、鶴岡トシ先生のご功績が記された書籍が(株)ビジネス社より出版されました。


同窓会で取り扱っております。1冊 1,728円(税込)。
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書籍案内(同窓会役員/会報・HP委員 槌本)

 『北海道・栄養学校の母 鶴岡トシ物語』が出版されましたので、簡単にご紹介します。 表題には、北海道栄養学校の母「鶴岡トシ物語」と記され、黄色の帯には、北の食卓を拓く!戦時中に私財をなげうって、北海道女子栄養学校(現・北海道文教大学)を創設した明治女のパワフル人生記と記載されているこの本の見開きには、『現在、食料自給率約200%を誇る北海道。
 しかし昭和初期まで同地では、食糧不足に苦しんだ人々が大勢いた! 札幌へ移住した鶴岡トシと鶴岡新太郎夫妻は、20年の歳月をかけて、道内初となる栄養士養成学校を創設。 グルメ王国北海道の礎を築いた教育者夫妻の歩みを、日本の栄養士の視点から迫る!』と、この本の展開を期待されることが記載されていました。
 本には、北海道文教大学のことが、前身は北海道栄養短期大学、その前は北海道栄養学校で、開学当初の名称は北海道女子栄養学校で、昭和17年の戦時中に創設され、世界で初めて佐伯矩(さえきただす)博士が「栄養学校」を日本で創設された後、日本で6番目に北海道でできた栄養学校であったことが記載されています。
 本には、北海道の明治の食事事情や、「下町のジェントルマン札幌へ」と題して、現在の大学創設に携わられた鶴岡新太郎先生のことが記載されており、新太郎先生は、北海道大学農学部の納豆博士の半沢博士にも師事されておられたようです。
 筆者は、この半澤博士と新太郎先生に関りがあったことを初めて知りました。
 半澤博士はバイオテクノロジーの草分け的な存在で、納豆から抽出した納豆菌を純粋培養する方法を考案され、現在では手軽に購入できる納豆作りの手法を確立された偉大な先生ですことを追記しておきます。
 そして越後出身(新潟県西蒲原郡の巻町で生まれ)の武士の娘であったトシ先生のことも記載され、新米教師として小学校で教鞭をとられ、後に北海道に渡られたことが記されていました。
 さて、大学のことについて記載されていることに戻りますと、御夫婦になられた鶴岡新太郎先生とトシ先生は、「北海道女子栄養学校」の設立を北海道庁に願いに、何度も夫婦で出向かれ、栄養学校の必要性を何度も説かれました。
 その言葉には「こんなご時世だからこそ、道民に栄養指導が大事なのです。栄養のあるものを正しく食べて、体力があってこそ戦勝も挙げられるのです。」
 このように新太郎先生は、国民が健康でなければ、戦争には勝てないことを力説され、ようやく1942(昭和17)年2月に設置申請書の提出が許可されましたが、そのときの申請書の設立者名と校長名の欄には「鶴岡トシ」と記載されました。
 いきさつは、ぜひこの本を読んで頂ければと思います。
 そして、本には、鶴岡学園二十五年史のことが引用され、開校当時の様子を記した北海道女子栄養学校に1期生で後に北海道栄養短期大学の教授になられました橋本美佐子先生の手記が文中に紹介されておりました。『当時、若かった私たち生徒は、誰一人として25年後の鶴岡学園の今日の発展ぶりを想像することはできませんでしたが、ただひたすら校長先生のお言葉に励まされ毎日勉学に勤しんだものでございます。
 大東亜戦争たけなわで、乏しい物資の中を比較的不自由を感じさせなかった新太郎先生の週3回の調理実習は、徹底した個人指導で厳しいものでございましたが、緊張しながら楽しい授業で、実に多くのことを教えていただきました。
 今、自分が担当しております授業の中で、若い学生たちに対し、かつて新太郎先生から頂いたお言葉の数々が思わず出てくることがたびたびございます。
 その度に先生のお教えの深さを、しみじみと噛みしめているのでございます。
 当時は、授業が終わってから先生を囲み、みんなでお話をするひと時は楽しみの一つで、つい時間を忘れてのミーティングに 、校長先生が「お腹が空きましたでしょう」 と、ご自分でお作りになった「エッグミルク」をご馳走してくださり、またまたそこで、校長先生もご一緒になって、時の経つのも忘れてしまうことがしばしばあり、懐かしい思い出の一つでございます。
 慣れない献立作成や、レポート提出のため徹夜した時の苦労も今では懐かしく思われ、軽川(手稲)迄行き、 そこで咲いていた卯の花をご覧になった校長先生から「卯の花・・・・」と歌を教えていただきながら歩いたことや、十五島公園での炊事遠足に、川を渡ろうとなさって足を滑らせ転んでお召し物を濡らした校長先生のお姿に気を取られ、次々と足を滑らせ、びしょ濡れになり、みんなで衣干しに時を過ごした一日、グループで日帰りの札幌岳登山に参加したものの、朝食向きのため途中でふらふらになり、頂上にたどり着いた途端にダウンしてしまった時の辛さ、学校の2階でカルタ取りに興じたお正月の1日・・・等々、短い間でありながら、想い出は数多く、懐かしいことばかりでございます。 』と、当時の鶴岡先生のお人柄を回顧されておられました。
 そして、本の後半の第6章には大学の学訓の『清く正しく雄々しく進め』の表題のもと、1963年北海道栄養短期大学誕生のこと、同年新太郎先生が御逝去されたこと、晩年までトシ先生が長く過ごされた南3条西7丁目のご自宅兼校舎は8畳間一室、その部屋は、ふすま一枚で隔てられた小さなともに流し台が一つ。その奥には石炭釜の風呂場があるようなお部屋で、輝かしい実績とは裏腹に驚くほどつつましやかな住まいであったことが記載されています。
 そして、大学が恵庭に移転する約10年前の1978年(昭和53年)8月3日にトシ先生が入院先の天使病院でご逝去されたことが記されております。
 また、文中には、北海道栄養短期大学誕生時の年末には、金策に大変ご苦労されたことが記され、北海道栄養学校の建設、鶴岡学園の創立、藤の沢女子高等学校の校舎建設、さらには北海道栄養短期大学の創設など、鶴岡夫妻はその都度、私財を投じられてきたことが記載されておりました。

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